二次創作におけるらき☆すたキャラ
例えば百合SS。そもそも原作やアニメにおいて彼女らが異性愛者であるとははっきり描かれていないのだから、そこから男との恋愛に発展させようが女との恋愛に発展させようが全くの自由だと思っている。「いやアニメでかがみはナンパされたがってたし、異性に興味あるんじゃね?」という解釈も当然あるのだが、これについてはとあるSSの一段落を引用したい。
あの頃私はただみんなといることが楽しくて、無邪気に日々を過ごしていたんだっけ。
去年の夏、みんなで海にいったときも、どうしてこんなにどきどきするのだろうと思っていた。私はそんな自分にとまどって、でもみんなが普通にしていることがなんだか悔しくて、少しだけ不機嫌だった。お風呂に入ったときもみんなの裸を意識してしまって、ずっと仏頂面をしていた。
全部ナンパのせいにして。
それで自分の心にも説明がついた気になっていたのだから、呆れるというかほほえましいというか。
kairakunoza @ ウィキ - 『4seasons』 夏/窓枠の花(第二話)
まあこれは幾分極端な例だとしても、とにかくらき☆すたというのは柔軟な解釈が可能な作品だと思っている。
が、それでも噛み付く人たちはいる。原作にある描写が全てではないだろうに、一体彼らは何を怒っているのかと不思議だったが、結局これはらき☆すたのキャラを支持しているのか、(正確な言い回しではないが)世界観を支持しているかの違いなんだな。いまいち話が噛み合わないのはこれが原因だったんだ。キャラだけ好きな人はおそらく、漫画らき☆すたの根幹を成しそうであるところのあるあるネタなど求めていないし、他作品のパロディには興味が無いし、こなたがオタクであるという要素さえ重要視していないはずだ。いや自分の話なんだけど。逆に世界観が好きな人は、あるあるネタでほのぼのしたいと思っているし、オタクネタに共感したいと思っているし、恋愛関係など生じるはずがないと思っているんだろう。
世界観支持派からして見れば、男と恋愛してみたり、女と恋愛してみたり、大学でぼっちになったり、平安時代になっちゃったりするのには「キャラさえ同じなら何でもいいんだろ」と憤りを覚えると思うんだけど、それに対してキャラ支持派は「そうだけど?」と素で答えてしまう。実際その通りだから。これでは相容れるはずがない。